過日、提案型コンペに参加し、プレゼンテーションをさせて頂いた。必要項目の中に会社の歴史紹介もあり、改めて我社の歴史を振り返って見た。資料を繰り、創業時の事を改めて調べて見ると、思わぬ発見と再認識をさせられるものがある。今日は、そんな事を書き留めて置こうと思う。
我が祖父 時田鹿之助は、明治30年大里郡奈良村中奈良に生れている。尋常高等小学校を卒業後、甲種青年学校に入学するも、中退をし明治45年、15歳で熊谷に出て岡田屋に弟子入りしている。棟梁原口伝助の下で12年間の修業の後、大正12年1月18日、独立して建築業を創業する。原口伝助は、名古屋の人で、建立された熊谷寺(ゆうこくじ)本堂大伽藍の大頭梁 愛知県出身の堂宮師石黒小一翁の高弟で、熊谷寺建設の脇棟梁を務めた優秀な宮大工であった。腕を見込まれて岡田屋に婿入りし、8代目を継いだと言う。
熊谷寺は、 江戸中期には本堂、十王堂、上品院、上生院等があったが、安政1年1月火災に遭い一塵に帰している。明治36年より約16年8ヶ月を費やし、大正4年入仏式が行われた。間口14間、奥行16間の総欅・入母屋造りの大本堂は、関東一の木造建築物である。昭和20年8月14日の空襲で市街地のほぼ全域が戦災を受けたが、幸いにも焼失を免れている。本尊下の戒檀廻りは、長野善光寺、甲府善光寺とともに国内有数の構築物と言われている。鹿之助は、幸運にもこの大工事を間近に見る事が出来た様だ。見習いの身とは言え、この経験は大きな自信と誇りに成った事を、後年耳にしている。
鹿之助は、主に伝統社寺建築を引き継ぎ、高城神社、稲荷神社、岩瀬神社、円照寺などを手掛けている。現在、祖父の仕事として残る高城神社の水屋は、昭和14年3月特命の請負として建設された。戦時下の統制経済も一段と厳しくなり、資材供給も儘ならず、大変な苦労の中での工事だった様である。
桁行8尺梁間6尺の小建築ながら、入念なデザインがされている。荘厳な入母屋の屋根を頂き、それを転ばし四本柱(内側に傾く柱)で力強く支えているプロポーションは、何とも美しい。その完成度、伝統手法を用いながらも斬新なデザインは、今日においても一級の作品として誇り得る建築である。私は、この水屋を我が社の建築の原点として位置付け、年初の安全祈願祭に高城神社に社員全員で詣で、この仕事に負けない技術レヴェルと完成度を常に心掛ける様努めているのである。
入母屋造りの水屋は極めて珍しく、改めて思うに、この小建築を以て熊谷寺の大伽藍に匹敵、拮抗する建築を作りたいと言う鹿之助の隠れた意志を感じずにはいられない。熊谷総鎮守 高城神社の水屋と言う、極めて身近に見られる建築である幸運を、重ねて思うのである。