東京電力に勤務する友人との会話の中で、「地域という概念が、少なくとも3・11までは、あなたの言う地域とは全く違っていたと思う。我々の言う地域とは、東電が電力を供給する全エリアを指している。だから、あなたの言うローカル・コミュニティー、地域とは全く別物だった。」 と言うのである。絞り出すように語り出した彼のトーンと表情に、極めて厳しい今を感じたのである。3カ月立った今も、未だに電力供給の出来ないエリアがあると言う。発電機を持って行けば、さしあたりの電力は供給出来るのに、全地域に張り巡らされた送電線網を通して巨大発電所から電気を供給しようと言う地域の発想では、むべなる哉とも思うのである。
私達は、オール熊谷自立支援ネットワークと同じ発想、システムで、地域のエネルギー・セキュリティーの問題に切り込んで行こうと発意している。友人と、先ず一歩を踏み出した。極めて重要なテーマでありながら、身に余る大きな問題でもある。何処まで出来るか、勿論分らないが、気付いた人間の責任として動き出したのである。
そんな折、砂川先生のブログを拝見した。以下、その抜き書きである。
「かの人類学者・梅棹忠夫先生の教えが、この大震災の文脈にあわせてNHKの番組で取り上げられたのは、つい最近のことだ。ほぼ深夜の放映直後から、数多くのブログが立ち上がっていった。多くの論調は、共鳴や共感を示していた。そんなことにボクは、まず驚き、かつ納得もした。
おこがましいし、ふつつかで、断片ではあるけれど、先生の教えは、関東弁で書けば次のようなものだ—–と思う。
文明とは本来、人間が考え出す“負”を回避できる営みを進めることだ。しかし人間とは、予想外のことをやらかして(負を生み出して)しまう。これを、人間の“業”と呼ぶ。業とは、人間を人間たらしめる最大の特徴でもある。業とは、「やるな!」と「やらないわけにはいかない!」という対立を孕みつつ、制御不能な状態を育んでいく。そこから、“滅びる可能性”が導かれてもいく。
では、制御とは、まったく不可能なことなのか?先生は、言う。制御—–できるとするなら、過去のしがらみから解き放たれて、これまでとは“まったく違う考え方”を吟味してみることが前提—-なのだ。
先生は、あちこちで語り、書いておられた。文明とは、必ずしも物質的な豊かさを意味しない。物質的な豊かさとは、文明のひとつの側面にすぎない。文明とは、いわば生物装置だ。だから、綻びても壊れない。いや、壊さないという“理性”がその装置を維持する。しかし、壊さなければいけない時には、壊さなければいけないのだ。そういう意思を、英知と呼ぶ。と・・・。」
月に一度アップされる砂川さんのブログに、納得し、励まされ、そして触発される。我々に英知はあるのだろうか、と問わなくてはならない今が在る。