俳人、詩人、歌人等と 作家、建築家、書家等の、「人」と「家」の相違はどこにあるのだろう、と思うと良く分らない。逆引き辞典で調べて見ると、陰陽家から和算家まで職能と個人の資質を表現する「〇〇家」は優に100を超えていた。同様に「人」をみると、人種、属性等を言う「〇人」は、これも結構な数に成り、明快な区分けは出来かねる。俳人は俳家、詩人は詩家と言う言葉を持つ事も、今回初めて知った。
実業家の楽富さんは、「・・家は、御金儲けをして家を立てる人、あるいはそれを望む人。・・人はそれが出来ない、あるいはそれを望まない人」 と規定していたけれど、一般的にはそんな理解なのかもしれない。
「市民運動家」 と言う言葉が気に成った。その視点で私を自己規定すれば、「地域人」 程と思っているのだが・・・、総じて「家」には、ある種の敬意の念が含まれている。
市民運動出身の政治家である菅首相の発想と行動が、この言葉をベースに置くと良く理解出来る。市民運動家は、個人の基本的理念よりも、曖昧な市民の空気への感応に優れている事が、第1に問われる。つまり市民の要求への素早い対応は、主体の無い方が矛盾無くストレートに、アクションを直結する事が出来る。まさに、究極のポピュリズムこそが身上なのである。今日、与野党、国民の大方だ退陣を望んでも一向に意に介さない強靭さは、市民運動家と言う出自から来ていると思えば、分り易い。目まぐるしく変節して行く事は、情況の変化を鋭く感受して居ると思えば良いし、これだけ市民の為に私欲無く努力しているのだから、必ず支持される時が来る。支持されるまで現状放棄は有得ない、と言う市民運動家の行動規範に裏打ちされた必然の行動なのである。西部邁は、菅首相の行動に全くオーソリティー(権威)を感じない、と言う。市民運動家にとって権威こそ最も嫌い、対抗すべきものとして在るのだから、これも当然なのである。
嗚呼 と言う外、術が無い。