熊谷女子高校出身 青山七恵さんの「ひとり日和」を読んだ。今話題の小説だからと、若い友人から掲載文芸春秋が回って来た。私は小説を読んだ事が無い。これまでの全てを総計しても、10指を超えないのではないかと思う程である。私の片端な成長を心配して40歳の誕生祝いに、的場朱美さんと望月照彦さんから日本文学全集が送られて来た。長く玄関に荷を解かぬままに置かれていたが、湿気に痛み出し、今は我が本棚に綺麗に並べられたものの まだ読んでいない。(お二人には顔向け出来ません。御容赦下さい。) 小説よりも奇なる人生を生きていると言う自惚れが何処かに在った事と、黙読が出来ないのである。評論,哲学書から小説、童話まで本を読む速度が全て一緒で、読書は苦手であると思い込んでいる。小説を読む時間が勿体無いとも思っていた。本を読むより思索しているほうが手っ取り早いし、幸いに優秀な友人先輩が多く、彼らの中で消化再構築された知のエッセンスを頂く事で充分に足りていた。だから たまさか読んだ本には驚くほどに拘束される。私が教条主義者であることは、この読書に関係があると思っている。
小説「ひとり日和」の評価が出来ない。小説は俳句の対極に在り、主題を何処まで分厚く事象で包み得るかが作法であり、俳句は17音まで削いで行く。だから読んで行く事、文章できっちり状況が設定される事が煩わしくもあった。20代の私、40代の母、70代の老人の関係性と情況に今が在るのだろうが、なんとも小説を読んだ事が無いので判断のスケールを持てない。読む事で小説を楽しむと言うよりも、作者青山七恵その人を思っていたし、50台後半の私の「ひとり日和」を思っていた。20代前半の女性から50代後半の男に主人公が替わったらテーマ、ストーリィーはどう変質して、分厚く積み上げられて行く事象のディテールは何に目を留めていくのだろうか、と考えていた。似て非なる我が「ひとり日和」を想わせる「ひとり日和」には、非凡な才能と作品の価値を持っているのだろう。残念ながら良く私には分からないのだけれど。