我が家に在る2種類の熊谷桜のひとつ、「クマガイ」が咲き出した。可憐な小ぶりの八重桜で、「クマガイザクラ」よりも濃いピンクの花である。
現在熊谷の名前の付く桜は、4種あると言う。熊谷桜、熊谷、兼六園熊谷、伊予熊谷で、兼六園では熊谷と呼び、伊予熊谷も地元では熊谷桜と呼ばれていると言う。熊谷桜の名前は、1600年代前半から歴史書に登場し、そのひとつ慶長10年(1605年) 「義演准后日記」 に熊谷桜の名が見られると言う。生保4年(1647年) 那波道円 「桜譜」 桜15種のひとつに、寛文4年(1664年) 水野元勝 「花壇網目」 桜36種の記述に登場するなど早咲き桜として随分とポピュラーだった様だ。宝暦8年(1758年) 松本怡顔斎(いがんさい) 「桜品」69種の中に出て来る熊谷桜のスケッチには、今日私達が熊谷桜と呼ぶ雌蕊の長い1番の特徴が見られない。当然蕾の段階から雌蕊が飛び出す形状は、省略出来ない特徴であるから、松本怡顔斎の「桜品」に書かれた熊谷桜は、「熊谷」に近いのかもしれない。実のところここがミステリーで、江戸末期には250種以上の桜の品種が記録されていた様だが、維新の混乱で多くの桜が失われてしまった。熊谷桜が幻の桜と呼ばれる所以である。
今日、我が街における熊谷桜ブームを担ってきたのは他ならぬ 「桜ファンクラブ会長」「荒川塾塾頭」 横田透氏の御努力の賜物である。熊谷桜の発見に尽力され、発見した熊谷桜の増殖に努めて来られた。彼の御好意で我が家には2種4本の熊谷桜を頂いている。有難い限りである。熊谷桜の朦朧とした「幻」を抜け去る為には、横田氏の御努力を高く評価し、これを確り喧伝する事である。妻も昨秋、3本の接ぎ木の御指導を頂き、1本が付いた。妻の友人の中には3本のトライで3本全て成功と言う方もいらっしゃる様で、大いに喜ばしい。こうして多くの方々に、この桜を熊谷の「熊谷桜」と認めてもらう事である。
実は、横田氏の俳号を「桜遥」と言い、熊谷桜を、別名「桜遥桜」と呼びたい程である。「おうようざくら」、雌蕊の長い気品のある桜のイメージにぴったりと私は思っている。