昔から「三上」と言い、「馬上・枕上・厠上」 で良く思いを巡らせる事が出来ると 言う。私の場合は、風呂の湯船に浸かっている時が一番かも知れない。只ぼーっと思っているだけなのだが、俳句がふっと降りて来たりももする。これだと思う多くの名句が風呂を出て暫くすると、思い出せず、書き置く事も出来ないのが現実ではあるが・・・。
寄居人さんの言う 「易、不易の明確な認識こそが安心の礎だと思っています」 と言うコメントが気に成っていた。私は何故寄居人さんの明快な発想に及ばないのか、と風呂の中でぼーっと思いめぐらせていたのである。
言葉の意味を調べると、「易」とは、取りかえる、入れかえる。「不易」は、「いつまでも変わらないこと、またそのさま。不変」 と言う。、芭蕉の 「不易流行」 は、良く知られ日常に於いても使われている。何故私に、寄居人さんの言葉がストレートに落ちて来ないのかを考えると、私の意識の基準は、「善」 という事の様に思えて来た。「易、不易」 と言う概念から比べると極めて情緒的な 「善、不善」 を私の中では強く意識している事に気付いたのである。善に対して不善と否定するよりも、悪を対の語として意識しているが、善悪などと言う価値の基準は、極めて曖昧で、時間的空間的、また環境に於いても大きくぶれる。当然の事として、意識すればするほど基軸の変化を感じてしまう。勿論、我が価値基準に拘泥しながらも、その心情を正しく表現しようと思うと、「女々しく・・」 と言う事に成り、「易、不易の明確な認識こそが安心の礎」 からほど遠い所に位置する私自身を見てしまうのである。「不善」 などと言う言葉はあるのかしらと辞書を引くと 「よくないこと。善でないこと。道にはずれること、またそのさま。道徳に外れる事。」 とあった。成る程と、思い当たり、倫理と道徳 と言う抱え込む領域と関係性の差異を知らしめられる。
今日もまた、自分の女々しさを強く感じてしまうのである。