こんなカテゴリーがあった事さえ忘れていた。私の中で、いつの間にかシニカルにものを見る事が少なくなり、腹立つ前に穏やかに事態を受け止め様と思うのも、程良く歳を重ねて来たからかも知れない。
実の所、過去との連続性の中に今が在り、その今が在るからこそ未来へと今が存続する。その連続性を打ち破る事は、それだけの覚悟と思想を持たなければならない。その強い意志が有ればこそ、大きくは世界、国家レベルでも、地域、個人レベルでも、時代と状況は革新されて行く可能性を獲得出来る。残念ながらその意識も無いままに事が進むならば、何時か進ませた主体の無能さを社会に表出するだけである。
加齢するとは、この辺で力まず激しく拮抗する事も控えてしまう。成熟にある穏やかさとは、諦観がベースに在るのかもしれない。
ついでに言うなら、〇〇ミックスは、同時に〇〇りクスではないかと言う疑念に対して正しく発信できない成熟社会の安穏までも、諦観から来ているのかもしれないと、私自身の日常に久し振りに起きた不快から実感するのである。