意識的に時間をどう使うか、思えば何時も追いたてられている気分の毎日の中で昨日は、何する目的も無く過ごすせる又と無いチャンスであった。約束もキャンセルとなり、こんな日は音楽を聞いたり、まだ締め切りに間のある原稿を考えたりするには都合が良い。
何年振りだろう、久し振りにポール・マッカートニイ―の「ラム」を聞いた。少し厚手のセーターを着込んで、石油ストーブの芯が赤く燃えている小さな部屋で、LPレコードを聴いていたのは、怠惰が許された学生時代だった。好きなレコードの一つで、結婚後も幾度となく聴いていたのだろう。我が家ではレコードが聴けなくなり、音源が皆CDに変わったある日、父の日だったろうか、子供達がCD盤の「ラム」をプレゼントしてくれた。
相変わらずこの曲達を聴くと決まって、少し厚手のセーターを着込んで石油ストーブの芯が赤く燃えている小さな部屋を思い出す。曲を音として聴いた後、今度は歌詞カードを見ながら聴きて見た。音としての言葉が意味を持って拡がる事の驚き、時代を超えた偉大な天才、ポール・マッカートニイ―の「ラム」は、凄い。私は、みみっちい我が俳句脳を叩かれて、ラムを聞きながら俳句の事などを、考えていた。
良く晴れた日曜日、兎に角雪掻きをしなくては成らない。雪質も量も、先週とは全く違う。雪を片付ける場所さえ無いのだから難儀である。楠木は、ほぼすべての枝が落とされ、妣(はは)が大切にしていた椿、侘助の結構大きな主幹が無残にも折れていた。夏蜜柑も同様である、実の生っているほぼ半分が椏から折れていた。この現実に、観測史上初の熊谷の大雪を実感した。娘がしみじみと、「この雪は災害だ・・」 と言っていた。言い得て妙と、親父は思ったのである。
捥がれ折れ扱かれて楠雪の術 幻椏