思えば私は気付かずにこれまで来たが、29日の仕事納め以前から、妻の年用意はスタートしている様である。台所回りを片付け始め、その後おせち料理の材料を用意する。30日、私は庭の掃除を始め、午後に正月飾りを買いに街に出る。〆飾りを2組、鏡餅用の御飾を1組求め、一夜飾りに成らぬ様にそれらをセットする。二段重ねの一升餅が鏡餅用に一つ、そして1合の同じく二段重ね餅が13組、これを半紙に包んで10か所の神棚、仏壇に供えるのである。が、これをどう配するのか・・一瞬惑う。これを私は毎年声に出している様で、次の世代に正しく伝える為にも確りメモを取る様、今回も叱られた。
可笑しな書き出しに成ってしまったが、女房と共に、娘と二人の嫁は31日の早朝より台所に入り、おせち料理を作り出す。長男の嫁は、嫁いで初めておせち作りに参加した年にメモを取り、写真を撮ってノートを作ったと言う。私と違って、妻から次世代へと我が家の伝統は上手く伝承している様である。
女性群のチームワークは宜しいのだが、我が家の男は全く頼りにならない。「
煤逃げの常なる考(ちち)
や窓をふく」と昔こんな句を詠んだが、私は相変わらず煤逃げを許されず「
煤逃げの息子と孫は映画館」、私は黙々と一人、31日の我が年用意をこなさなければならなかったのである。
元朝、私は8時から高城神社の元旦祭に参加。淑氣に満ちた拝殿で、厳かに新年のスタートを切った。
その後、我が一族全員揃っての新年会が始まる。女性陣は早くから集まり、手づくりのおせち料理を盛り付け、新年会の配膳に忙しい。
現在の住宅が竣工した1983年には、両親と私の家族が5人、弟家族が5人、計12人が一つのテーブルを囲めるようにジャイアントテーブルをしつらえた。が、サードミレニアムに入ると両親を送りながらも息子達は嫁を迎え、孫を儲けて現在10名。弟家族も12名と大家族になった。写真のセットでは間に合わず、リビングルームの長テーブルまで総動員である。我が家はこの状況を充分に想定して計画された住宅、と設計者である私を私は、少し褒めている。
10時半過ぎに弟家族が到着、賑やかに我が家の新年会が始まった。
ふと覗いた玄関の靴の数にビックリ、思わずカメラのシャッターを切った。
この賑やかさが有り難く、何より豊穣である。
2019年、時代は大きく変わる。時代の空気は、能動的でも有り受動的でも有る。何も語らず仕舞いの我が家の新年会で有ったが、それぞれに期するものが有るに違いない。大過無く良い1年に成る事を、只々願うばかりである。
元日の宴を終えた後、我が家族10名は打ち揃い初詣に出掛けた。例年の7か所の神社仏閣を回り、新年初日を終えた。