江南町の合併を明日に控え、今日の朝日新聞の「盛り上がらぬ大台到達・特例市へ水増し感も」と言う記事は悲しかった。この記者は何を伝えたいのだろうか。新聞のニュースとは、ありのままの今を伝える事であるから、事実盛り上がらぬ市民感情をそのままに伝えている事が私の仕事だ、と言うだろう。きっとそうなのだろうが、記事の内容に記者の担当地域への優しさと配慮が微塵も感じられない。大新聞の全能感を、何時の間にか状況から身を引き、批判する事で担保するこの種の書き方を最近良く眼にする。新聞だけでなく、メディア全体の傾向で、マスコミの全能感は止まる事を知らない様だ。
05年の、大里・妻沼の合併に到るまでのプロセスの中で、深谷大里地域、あるいは行田を含めて合併の具体的イメージを作り出す前に、関係首長のエゴを超えない思惑から、本来合併から創出されるべき高揚感を意識的に殺いできたのも事実である。それを丹念に取材していた埼玉新聞吉田記者の地域への熱い思いが、彼の焦燥の記事と成った以外、私は記憶が無い。朝日新聞の記者は、当時何を報道していたのだろうか。今日の記事のためにシニカルに 只眺めて居たのだろうか。記事に添えられている、松本会頭のコメントにも、朝日新聞の記者と同様のスタンスを感じて、これも悲しい。批判を超えて、地域に対する熱い情熱と提案が語られていたならば、記者の表現も変わって居ると思うからである。
私の尊敬する3人の巨人、金子兜太先生は、この武蔵野の気候風土と歴史が頑強な土着の気質を創り上げてきたと言い、大野百樹先生は、最も晴天率の高い熊谷の明るさをこよなく愛し、野口白汀先生は荒川の河原の丸い石ころに自然の優しさと在るがままの多様性を見ている。先生達に批判は無い。一人跳び抜け万能感を演出しようと言う姑息さを少しも感じるところが無い。肯定的で、明るく、暖かい。
人間は、基本的に悲しいものなのかも知れない。特に、それも意識せぬ内に、自分の万能感を守る為に執る行動は、往々にしてその悲しさを際立たせる。
明日から、何はともあれ、熊谷は20万人を超える都市として新たな歴史を刻み始めるのである。