年金問題が泥沼の状況を呈し、その混迷に連動して安部内閣の支持率低下が著しい。
内田樹先生は、社保庁の機能不全を 「極めて今日的な日本人のメンタリィティーに起因している。システムトラブルは、小さなケアレスミスから始まる。システムクラッシュさせた責任は 『起源』 には無い・・・」と言い、システム維持には「対症」 と「予防」 の二つの対応があると続ける。責任を徹底追及して二度とこのような不祥事を起こさないシステムを構築する、と言う考え方を「対症的」と言い、誰が起こしたミスかは判らないけれども放置しておくと重大な事態を招きかねないから私の責任において対処しておこう、という考えを「予防的」発想と言うそうだ。システムには完璧は無く、いつか必ずシステムのほころびが始まり、対症を繰り返す、一方予防にマニュアルは無い、とも言う。
ハインリッヒ・シュリーマンを始めとする江戸後期から明治初期に来日した多くの外国人の我が国に対する記述は、貧しいながら極めて美しい国と書かれている。少なくもある時代までの日本人には、無意識のうちにこの予防的感性が備わっていた。だから西洋人には脅威の「美しい国、日本」 が見えたに違いない。樫野紀元氏は、今日の堕落の元凶は明治政府の取った「脱亜入欧」と「廃仏毀釈」に有ると言い切る。が、戦後我が民族の混迷振りはどうしてしまったのだろう。
「戦後レジュームからの脱却・美しい国日本」を希求する安部内閣の一番の特徴は、総理内定後 予定者としての期間が長かった事にある。約一年、ポスト小泉の政策構想は自薦他薦を問わず様々な分野から知の集結があり 構築されたに違いない。この知的集約からの構想に期待していたのは私だけではないと思う。まさに対症的システムで崩壊した日本の今を 矜持をもって革新する為のテーマが「美しい日本の再生」であったはずである。その実行も危ぶまれている政局の原因が、緩みきった醜い日本の象徴としての社保庁 によって阻害されている皮肉に、私は悲しみを覚えるばかりである。