自邸のトイレの床は茶色の大理石を使っている。変成岩特有の模様があり、便座に座って眺めていると様々な象形を得る。通常、人間の脳は身近なものに像を結び付けたい強い傾向が有る様で、人間の顔をイメージする事は極自然な事なのかも知れない。時折ニュースで見かける人面魚や人面石の話題、心霊写真なども人間の脳の生理なのだろう。我がトイレの床にも無数の顔がある。これを10年を超えて眺め続けていると、常連の顔も幾つもあり、その顔を持つ人格やエピソードさえ構築されてくるから面白い。人間の脳のイマジネーション、結像能力の凄いところである。最近は新たな顔探しや、動物探し、或いはもっと抽象的な絵柄を探したり結構楽しんでいる。この様な思い込みは罪も無く楽しいのだが、日常生活の中には同様の刷り込みや思い込みが罪作りをしている事も多い。その一つに家相も含まれるかも知れない。
本来家相は、地域の中で経験的に獲得された地域の特質と生活の在り様を、禁忌を使って制限する極めて科学的な建築計画学である。が、それを超えて呪術的な論理を超えたオカルティズムも多く、中々難儀である。明らかに建築計画的に間違いや不利も、家相見の先生の御託言は敬虔あらたかで上位の位置を得る。超絶的な御託言は「この設計では御主人の命はありません」 と言う一言で完敗ある。建築家として万が一を思えば施主の命まで保証する事も出来ず、当然折れざるを得なくなる。ある著名な建築家は8角形の家を創り、家相見の言われる方位方角をそのままに平面計画をしていた。「これで文句あるか」 と言わんばかりのモダン建築になった。我々にはそこまでの勇気も無く、折り合いを付けるべく、必死の努力をする日々なのである。
思えば他にも沢山のタブーがあり、それに縛られ振り回されて結構大変なのだがそれを楽しむ節もあり、人生の奥行きや陰影を深め、思いの外の味わいを作っているのかも知れない。