煤逃げの常なる考(ちち)や窓をふく 幻椏
今朝は残雪に陽光が反射し、眩しくも晴れやかな立春となった。その立春に「すすにげ」の季語は何とも季節外れである。「煤逃げ」は「煤払い」の傍題で、老人子供、病人などが煤払いの邪魔にならない様、別室に避難させる事を言う。避難する以上に、自らエスケープ・逃避を決め込む可笑しみを言う事も多い。冬の季語ながら、年末の季語である。
今日、煤逃げの句が朝日俳壇 金子兜太先生の首席入選として選ばれていた。通常入選すると、早朝に叔母から電話が掛かって来たり、お祝いメールが入ってきたり、それなりに騒がしくなるのだが、今朝は事の外何も起こらず、私も最近 句作そして投稿句の低調は承知していたので、朝日俳壇も意識的に放念し、月曜の朝の業務に取り掛かっていた。だから自分で新聞を開き、我が名を見付けた時の驚きは無かった。
昨年末に書かれた句を、今年1月21日に投句したものである。「考」は逝ってしまった父を意味する。「考妣」とは亡き父母を言う事を知り、あっという間に逝去した両親を、私は考妣という言葉で意識している。
父は2003年11月29日、満80歳で逝去した。根っからの旦那気質で、女房子供が忙しく年用意の大掃除をしている様子を横目で見ても、一切手を出さなかった。自室の安楽椅子に寄り掛かる様に座り、膝掛けを乗せ日溜りに居た父の姿を思い出しながら、今は仏間と成った両親の部屋の窓硝子を庭先から拭いた。小さな生活の中の感慨と場面である。
今年初、そして5回目の首席入選となった。大いなる励ましとしてありがたく受け止め、今後も精進したいと念じている。
いつも「煤逃げ」していた亡父の事を思いながらの窓拭き。「考」の一字に感慨が籠る。
と、金子先生の句評が添えられていた。