基本的に私は、強靭な精神と言うものを持っていない様である。オリンピックでの勝利は、なべてこの強靭な精神の賜物であると語られる。メダリストはこの強靭な精神の持ち主であり、敗者はこれを持ち合わせていなかった、と言われてしまう。テレビ観戦の私は、見ているだけで息苦しく、見続けられずにザッピング (落ち着き無くリモコンを操作しながら番組を渡り歩く) という様である。昨夜も、ザッピングを繰り返しながら遅くまでテレビを見ていた。この脆弱な精神を引きずりながらも、ウサイン・ボルトの200メートルの決勝は見たい、と思っていた。すでに100メートルで9秒69の世界新を記録、後半勝利のパフォーマンスをしながら走っての記録であるから一層その結果のヴァリューがアップもし、200メートルの期待も大きかった。
100・200メートルの短距離走をはじめ陸上競技の多くは、水泳の水着や、道具を使う競技と違って極めてプリミティヴである。基本的にかけっこであり、このシンプルさが一層の感動を生むのかもしれない。勿論競技場のトラックの質の向上、100分の1秒まで計測可能な技術がありながらも、その場で展開される8人の順位と走力の差は明白であるから、記録を超えて分りやすい。
100メートル走は、人間の能力として9秒7が限界だと言われていたと聞く。この壁をあっさりと突破したのだから凄いと言う評価を聞いた。きっと何にでも限界・壁があり、それをブレークスルーするために最善を尽くしている。しかしながら素の身体を使う運動競技は、獲得した文明・技術に抗うところで存在する。全ての文明は、身体の膨張・肥大にある。太古に私が生きていたら、今の私よりも数段身体的能力は優れていたに違いないと、思ってしまう。
1人の圧倒的な超人により、我等の退化を、不思議な感情を以って知らしめられた一夜であったのである。